2013年11月11日月曜日

UCL大沼教授インタビュー前半「海外に出て研究することの意味」



ユニバーシティカレッジロンドン (UCL)の大沼信一教授は、眼科学研究所の教授として研究をされる傍ら、「どうすれば日本を真の国際化に導けるか」というテーマのもと、最近の日本における若者の内向き志向、海外離れに歯止めをかけるべく様々な活動に取り組まれていらっしゃいます。大沼教授は日本で大学・大学院を卒業された後アメリカに渡り、その後イギリスに移ってキャリアを重ね、ケンブリッジ大学で独立し、現在はUCLで研究と教育を行っています 。研究分野も有機化学から始まり、バイオテクノロジー、発生生物学、癌研究、眼科研究と渡り歩いてきた異色の経歴の持ち主でもあります。

カガクシャネットヨーロッパ支部は2013年8月18日にそんな大沼教授にインタビューを行い、前半部分で大沼教授の、若い世代の日本人へ向けた活動の動機や、現在に至るまでの教授のキャリアについて伺い、後半部分では日本とイギリスの研究の質の違いや外の世界に挑戦するためのアドバイスなどを伺いました。

インタビュー前半:「海外に出て研究することの意味」

国際社会における日本の役割・日英学術交流150周年記念事業

江口:大沼教授は研究の傍ら、日本の学生達の留学促進などのボランティア活動を精力的に行われていますが、それはいったいどんなモチベーションに基づくのでしょうか。

大沼:モチベーションは、あまりにも今の状況が悪すぎると感じているところにあるかな。日本人の若い人たちが海外に出ないということが顕著で、若い人で国際社会で活躍しようという意欲のある人達がほとんどいないと感じているから。海外に出たとしても、そのほとんどが日本に帰ってしまう。個人的な意見で言うと、日本人も国際社会の一員な訳だから、国際社会の一員としての義務を果たすべき。日本も国際社会の他の皆と一緒になって、一員として国際社会全体を繁栄する方向にもっていかなくてはいけない。そういう国際社会のリーダーに成りうるような日本人をもっと増やさなければいけないと思っているんだよね。

国際社会で、各国の人たちと英語で対等に話しやっていける人をどのくらい日本の政府は作ればいいかという話は、日本国内でもいろいろな話があって、ある意見で言うと、もし日本人の一割が英語で普通に会話ができるようになって、4%ぐらいの人が国際社会で活躍するようになれば、500万人位の日本人が海外に出て国際社会で貢献できるくらいの社会になるという。そして、そうすればイギリスやアメリカなどと同様なバランスになると言われている。今の日本はそういう状況には全くなっていない。

少なくとも我々アカデミックで研究する上でおいて、例えばハーバード、ケンブリッジなどの全てのデパートメントに中国人やインド人の教授がいる。彼らは人口が多いということもあるけど、今はかなりのところに韓国人の教授もいる。一方で、日本人の教授はほとんどいない。また例えばビジネスの世界においても、日本の、特に国際化が必要な大手企業のほとんどには外人の取締役がはいっている。でも、欧米の大手企業で取締役をやっている日本人の話はあまり聞かない。何故こういうことが起こるのかというと、そこには理由がある。

国際社会の仕組みの根本を考えてみると、例えばケンブリッジ、オックスフォード、ハーバードなどのクラスメート達がそこでネットワークを作っていて、色々な所で会社等の良いポジションを皆でシェアしあっているという現実が少なからずある。問題はそこの段階に日本人がなかなかはいっていけないこと。そんな現状があるからこそ、学部くらいの若い段階で世界の将来リーダーになるような人たちが集まるようなところにまずは日本人を送り込むということが重要なんじゃないかと思う。

日本人は他の国でもやっていけるくらい充分に優秀であることは明らかなので、それを活かしていないのはもったいないと思うね。だから、政府がもっと戦略的に「海外に出る」「出た人に海外でポジションを取る」ということをエンカレッジしてくれたらもっといいかもしれない訳だよね。でも残念ながら簡単にはそうはならないね。今のこうした状況から抜け出すためにも、少しでもどうにかして何か手伝えることがないのか、というのがこの活動の大きなモチベーションになっているね。



江口:今年は特に、長州五傑の渡英150周年ということで、大沼教授を中心に様々な記念事業が企画されていますが、それらも同じモチベーションに基づくのですか。

大沼:そうだね。現状を打開するためにはどうすればいいかといういろいろな方法を考えて実行していかなくてはいけない。考えているだけでやらなければ意味はないので、この150周年というのは、日本の若い人が海外に出るという事に興味をもってもらうためにはある意味では最もいいチャンスなんだよね。日本がまだ鎖国をしていた江戸の後期、経済には問題があり、国内戦争も勃発寸前。海外の人達は開国をせまり、国内は議論でも揉め、海外とは部分的に闘ったり。この時代は今ととても似たシチュエーションなんだよね。

その時代に、薩摩や山口、長州の人達、また江戸幕府の中でも「我々は国際社会の中で生きていかなくてはいけない」と気がついた人達がいた。そのためには国際社会の仕組みや新しい技術を早急に取り入れなくてはいけなかった。どうやったら日本がその後成り立っていくのかというそういう視点に基づいて彼らは戦略的にやったんだよね。だからイギリスと組んで、それを上手くやっていくことを考えたわけだよね。

若林:この話で興味深いのは、まず薩摩の人たちがきて、その後に長州の人たちがきて、国内では犬猿の仲であった人たちが海外に出ると学閥、この場合は藩閥を超えて「日本」を意識し始める。日本の細かい枠組みの中では対立があっても、外に出ることで日本の中で設定されている枠組みからフリーになってもっと大きく考える様になるんでしょうね。

大沼:海外にいると外から客観的に見るようになるからね。彼らの後には江戸幕府さえも続いてこの次の日本をつくろうという流れにつながった。日本国内にいてずっと研究をしていたら、自分の企業や大学、デパートメントのことしかやらずに一生終わることもある。海外に出ると日本全体のことを考えて物を見られるようになるから、だからもっと大きな枠組みで物事を考えるようになる。彼らも海外に出て、海外から日本全体として日本という国がどうなっていくかということをみたから、日本全体を救うために彼らが日本を作れたんだよね。あれを日本国内の人たちがやったら、戦国時代のようなものが続くだけだったかもしれない。

何故今、海外留学なのか

大沼:驚くことに明治初期の時代に留学していた日本人は2万人くらいいるからね。そんなにも多い人が留学していて、そういった彼らが今の日本を作ったという歴史がある。その時代、彼らは日本が国際社会の中で確固たる地位を確立できるために交渉に駆け巡り、国際社会の色々な機関に戦略的に日本人を送り込んでいる。そうして日本という世界の列強の一つを創りあげたからこそ、今の日本がある。だから今の日本が、国としてどういった方向でいかなくてはいけないかというビジョンをもう一回見なおすという意味で、この150周年というのは最適な機会なんだと思う。これを通じて多くの若い人たちも、国際社会の中で生きるということの重要性に気づき、「俺も同じようになりたい。」と思ってくれたら何よりだと思う。ただ、なかなか難しいのかもしれないけどね。

江口:それはなぜ難しいのですか。

大沼:今の日本の環境では、若者がそういったことにモチベーションを見出すことが難しいんじゃないかと思う。例えば日本人の高校生に「あなたは日本の総理大臣になりたいですか。」と聞いて、いったい何人がなりたいと答えるのだろうか。少なくともアメリカだといるとおもうんだよね。日本はどうしてもサラリーマンや公務員のような安定した仕事に就きたいという人の割合が多く、「将来自分は日本を担っていくんだ」という人が少ないんだと思う。

江口:江戸時代に密航は死罪と知りながらも、命を賭けてまで国を背負って飛び出していった若者たちは、今の人達とは何が違ったのだと思いますか。

大沼:本質的に何かが変わったのではなく、環境さえ変われば日本人はやるんだよね。例えばサッカー選手の場合、日本で活躍する選手に「海外でプロ選手になりたいですか」と聞くと恐らく多くの人は「もし機会があればやりたい。」と言うと思う。或いはフランス料理などの料理人の場合、「フランスで修行したいですか。」と聞けば、彼らもやはり「やる」と答えるのだと思う。だから今の若い人が、本質的に海外に絶対出ない、という流れでもないと思う。学術分野で外に出ていくことに関しては、はっきりとしたビジョンが見えづらいような環境にあるのだと思う。

若林:料理人やサッカー選手は個人として独立した職業である一方で、組織に属しているようなアカデミアの人たちはコネクションが切れてしまうことを恐れ、それが踏み出せない理由に繋がるのかもしれませんね。

大沼:料理人であっても、海外にでたらそういう意味でのコネクションは切れてしまうと思う。向こうで活躍して有名になって戻ってくるから次のいいポジションがあるわけで。大学関係だって、本当はアカデミックで海外をでて日本とのコネクションが切れるわけでもなんでもない。実際には海外に出た人のほうが明らかに日本国内に戻った時にアカデミックポジションを取れる確率は圧倒的に高いと思う。日本国内でドクター、ポスドクをやった人で一体何%との人がポジションを取ることができるだろうか。僕は、海外に出た人たちはほとんど皆とれていると感じている。

若林:カガクシャネットのメーリングリストなどで、日本の学部生たちから「海外に出てしまうと日本に帰れなくなってしまうんでしょうか。」というような質問も多いのですが、どのようにお考えですか。

大沼:その概念を一体誰が作っているかが問題だよね。それは全くないと僕は思う。よっぽど悪い大学や、海外に遊ぶことを目的で来るような人たちには難しいかもしれないけれども、欧米の大学に留学して本当に就職がなくて困っている人はいないと思う。UCLやケンブリッジに留学して、どこにも帰るところがないという人を少なくとも自分はみたことがない。大体の人は日本に助教として戻って、数年後に准教授になって、そして気づけば教授になっているなんていうのがほとんど。帰国後すぐに教授になる人もいる。それが現実なのになぜか逆の印象を持たれがちなんだよね。日本人に情報提供しなくてはいけないと言うじゃない?たとえば今誰かが、国内出と海外出のポスドク、アカデミックポジションを取った人の数を比較した統計を出してみるのは面白いかもしれない。明らかに外を経験したカガクシャのネットのメンバーの様な人のほうが日本国内でポジションをとっているんじゃないかな。

多彩なキャリアの歩みを振り返る

江口:こういったような現状の認識は、大沼教授はUCSDに行かれた時にはすでに持っていましたか?

大沼:その時はまだ若いから、自分が何をやりたいかというものが主だったね。でも、若い人はそのほうがいいと思う。自分が本当にやりたいこと。自分は何をやりたいのか。僕は工学部で助教をやってた時に人生において今一番大きなチャレンジングな仕事をしたいと思っていた。そして本当に自分が何をやりたいかと考えてみると、思ったのは2つあってひとつは「脳を作ってみたい」ということ。自分で脳を作ってみて、脳が出来る仕組みを理解したい。コンピュータ関係のニューロサイエンスではなく、個体として働く脳を作りたいというのがあったんで、脳を作れる研究の基礎をやっているその分野で有名な20~30人ほどの教授にメールをして、すると10人くらいの人がポジティブな返答があった。その中で一番丁寧な長いメールを送ってくれたボスがいて、「この人はよく考えてくれているからここにしよう」と決め、会いもせず電話もせずお金もらう話さえも何もせずに、「では12月に行きます。」と渡米してサンディエゴUCSDで脳の研究を始めた。

もう一つ思ったのは、「癌の治療法の開発を目指したい」ということ。だからケンブリッジ大学に移ってきてからは、脳の研究をやりながら癌との関係をもっと調べ始めて癌の部門で教官になった。今ではUCLで、脳の出来る仕事と癌の教授も兼任するようになった。だから自分でそうやろうと追った方向に無事向かっている。

江口:新しい分野に入る際に不安はありましたか。

大沼:なかったね。すべての学問領域は基本的には同じだと思う。何が違うかというと、そのそこにあるバックグラウンドの知識が分野分野によって多少違うだけであとは物を論理的に考えて論理的に説明して話をできれば同じなんだよね。その知識というのはだいたいどの分野でも一年いればエキスパートになれると思う。例えば大学に入ってマスターコースかなんかで実験始めて、その研究室の一年の勉強で2年生の頃にはもう皆基礎はできているでしょう。その分野を理解するために、たったの1年しかやっていないんだよね。だから次の分野に移る時に一年間気合を入れて勉強すればその分野の知識は全部入るし、後は自分のテーマをどう設定するかを考えて、僕の場合は自分のチョイスでできる所を選んでポジションを選んできた。

若林:先生はだいたい3年毎に様々な所を転々としていらっしゃいますね。3年という期限を最初からさだめているのですか。

大沼:定めていなくて、自分にとって3年というのが新しい分野でいい仕事をできるようになる時期なのだと思う。次に自分が何をやりたいかということを考えるためには、それまでにやっている分野でいい仕事をしないと移っても意味が無い。前の分野でいい仕事をしないで移ると、その分野が合わないからうつったという感じになるわけじゃない。だからその前の分野でいい仕事をして、そのいい仕事をし終わった後に次の分野に進むというのが理想的で、そうなると前の分野でそれなりの数の論文を出さないと意味が無い。だから新しい分野に移って一年ほど勉強して、実験しながら2年目くらいでテーマ決めた仕事をまとめて、3年目くらいに論文をだして、そうすると次に何をしたいかということが見えてくる。

若林:仕事が終わった頃に、自分の中に違うことをやりたいというような気持ちがわいてくるのでしょうか。

大沼:湧いてくると言うよりは、何を自分がしたいかだね。同じ事を繰り返すような人生の無駄はしたくはない。新しい分野、新しい分野、と開拓していく。僕は新しいことやそれに関する知識を頭に入れることが研究者として一番楽しいことだと思う。そのためには勉強して知識欲を満たすことで研究をしたい。だからそこを単純に追いかけてきたら結果として毎年3,4年くらいでテーマが変わってきていた。ただ、これは同じ研究を続けている研究者を否定するものではなく、一つの分野を究極的に追い続けるのもすばらしいと思う。いろいろな研究者がいることにより、多様性が生まれてくるのではと思う。

若林:振り返ってみると、そのサイエンスに対する強烈な興味というか、この世界が大好きで大好きでという思いはどういうところから来たのだと思いますか。

大沼:大学4年で研究室に配属になってからだね。3年生までは何をやっていいか、本当にやりたい何かがわからないところがあってね。昔から生物をやりたいとは思っていたけれど、本当にコミットメントしてやろうとは決まっていなくて、研究室に入って有機合成をやってみて、すごく面白いことを知った。朝から晩まで実験室で研究すると結果が出てきて、自分で考えたことがものになって出てくるわけじゃない。4年の時にはボスの助けもあって2つも論文を出せて、やったものが論文にもなるし評価もされるし、これはおもしろいなというその思いが強かった。ただ4年の時から自分が本当にやるものは何かということを常に考えててた。4年に有機合成をやってたけれど、マスターにはそこの研究室の上には上がらなかったしね。

若林:先生ご自身の中で4年生時の指導教官こそが自分の興味を着火してくれた人だったんですか。

大沼:ボスとは未だにメールでやり取りしているし、この前も遊びに来てくれたり、講演会をやるというと来てくれたりしてとてもいい関係。メンターとして影響を与えてくれた人は当時のドクターの学生だったかな。彼のボスがいい指導教官だったし、彼は研究が全て生活の一部のような感じの人だった。

指導する立場になって

若林:先生ご自身で、指導されている学生も多くなったわけですよね。先生ご自身の中で下の人を見る時に心がけていること、こういった指導をしようとか言うような信念は自分の中で何かありますか。

大沼:基本的には我々は研究者を育てようというのが趣旨なので、日々のディスカッションや色々なタスクを与えるから最初は皆一年目は苦労するよね。2年目、3年目になると、もう完全な研究者になって、ここまで変わるかな。と思うくらい皆変わるね。ドクターで入ってきた学生を見ていると、一年目と最後の四年目では研究者という意味で全く別人になるわけなんだよね。

若林:自分の下にいる人達を自分のところにおいて置きたいというような思いはあるのですか、それとも巣立っていくことを喜びと感じるのですか。

大沼:抱えておきたいという気持ちは全くないね。東北大で教えた時も、例えばマスターの人がドクターに上る時に残れとは言わなかったね。むしろ外に出ろと言っていた。一人はオックスフォードに行ったし、国内の他の大学に行った人も結構いたし、優秀なのは出たほうがいいと言っていた。日本は保守的で同じ人を自分の周りにとどめておこうという流れがあるじゃない。それはいいところもあるけれど、個人的にはそうはしていなかった。こっちでも残った人は誰もいないし、皆どこかに出て行く。

若林:それは先生ご自身の経験の中で色々な人と接していくということが研究者としての成長として重要という認識があるからでしょうか。

大沼:なんとも言えないよね。人によると思うけど、私としては常に回転して、新しい人を育ててまた次の人をとって、それが自分の仕事だと思っているところがある。


..インタビュー後半「イギリスで研究すること」に続く(追って公開予定)


プロフィール

大沼信一教授 略歴
東北大学化学系を卒業後、生物有機化学を学びバイオテクノロジーの分野における研究に従事した後に、University of California, San Diegoに留学し脳神経科学の研究を始める。翌年ケンブリッジ大学に移り発生生物学を専門とし、その3年後に癌学部に新設されたHutchison/MRC Research Centreでグループリーダーとして独立。2007年からはUCLの眼科学研究所で教授。

インタビュアー

江口晃浩
カガクシャネット スタッフ。計算神経科学の分野で、2012年よりオックスフォード大学にて博士課程に在籍。ブログ「オックスフォードな日々

若林健二
カガクシャ・ネット 副代表ヨーロッパ代表。医学研究に携わり、2011年インペリアル・カレッジ・ロンドンにてPhDを取得し。現在は東京医科歯科大学グローバルキャリア支援室特任助教。


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